このタイトルは12月20日の日経新聞の「文化」に作家の沢木耕太郎さんが書かれていたものである。私と同年代である彼はコラムでまずこんな書き出しからスタートしている。
「バスに乗っていると『車内には読み終わった雑誌やペットボトルを残さないようお願いします』という車内アナウンスに複雑な感慨を持つ。なぜならここ数年は、バスでも電車でも雑誌を読んでいる人に遭遇することはない。いったい雑誌の読者はどこにいるのだろう」
新聞で雑誌の広告を見るし、書店に行けば雑誌は並んでいる。しかし、街で雑誌を読んでいる人を見かけない。
沢木さんが何を言いたいかというと、沢木さんもそうであったが、雑誌に投稿されたものを何編かを集めて1冊の本にする。そんなところから雑誌に育てられた。若手のライターにとっては大事な「育成の場」なのである。それがなくなるとライター、作家が育たなくなるという危惧であり、危機感である。
「月刊PLAYBOY」も姿を消した。女性誌の「FRaU」も不定期刊になったという。
沢木さんは、ここでは書いていないが「スマートフォンの普及が雑誌にも影響を与えている」のは事実である。
今の若者、これからの若者が「紙の活字を読まなくなってきた」ということである。
雑誌も新聞も日常から消えていくのかも知れない。