2020年の冬真っ只中(1月、2月)に日本にも新型コロナウィルスが入り込んできて、春、夏、秋と過ぎ、再び冬に入ろうとしている。寒さとの関係はまだ証明されていないが、いち早く冬を迎えた北海道では急激に感染者が増加している。
そんな中、自由主義で国民に自由にマスクや手消毒などを任せた米国は世界でも最も感染者数が多く、11月30日で144,653人、死亡者数も2,106人になっている。
一方、感染元の中国は人口が多い割には、感染者数は上位30位にも入っていない。「不思議の一つ」である。知る限りでは村や町で感染者が出ると、そこは封鎖され、住民は自由を奪われる。またスマホで徹底的に個人は監視されている。
まさに米国と中国は対立軸になる。そこでどちらの社会システムが良いのか?まで議論されるまでになっている。
そうした中、日本は春から夏にかけて感染者拡大の時に〝緊急事態宣言〟は出したものの、ロックダウン(封鎖)はしなかった。国民の多くは国や自治体の〝自粛お願い〟〝三密避け〟〝マスク着用〟に素直に協力した(勿論、自分や家族を守るということが前提ではあるが…)。
これも世界からみると「不思議の一つ」のようである。何故、そうなのだろう?
1923年(大正12年)、日本は関東大震災に襲われ、東京は壊滅的な被害にあった。色々な風評被害も出たという。また、第2次大戦後の焼け野原になった東京で、人々が食べ物や物資の供給のために行儀よく並び、お年寄りがいれば「お先にどうぞ!」と、思いやりを持ち、自分のことより他の人のことを気遣うといった、震災や終戦直後のその風景に、外国人のジャーナリストが「日本人は何故、こうなんだ?」と驚愕したことが様々な本に書かれている。
それは「日本人の美質」としても語り継がれている。外国人からみたら「とても不思議な日本人」に映る。そして「分かりにくい日本人」の特性でもあるようだ。
この日本人の特性について、日本人でも「~だからです!」と説明できる人はいるのだろうか?私も「何となくこうだから」と曖昧にしか説明できない。
この点について、私の知る韓国人学者、呉善花(オ・ソンファ)さん(拓殖大学国際学部教授)が「日本人の曖昧力」(PHP新書)に書かれていることに私自身も納得、共感するので紹介する。
呉教授が大学で教鞭をとっていた時、「日本人はバスや電車に乗る時、誰に命じられるまでもなくきちんと行儀よく列に並んでいますが、何故、日本人はそうするのですか?」と問うと
中国人留学生は「他の人が並んでいるから、自分もそうしているだけなのではないでしょうか」と答えた。
そこでまた「ではなぜ、中国では列にきちんと並ばない人が少なくないのですか?」問うと
「それは時間が無駄だからです」と答えたという。
呉先生は、そのことに対して、「日本人は損得勘定や外側から規制されてという意識はなく、列にきちんと並ばないのは、何より『美しくない』と感じるからではないでしょうか?身勝手な自由を嫌い、勝手に割り込むなどは醜いことで、恥ずかしいことだという意識が日本人にはある。その他、時間を守らない、親しき仲でも礼儀を欠く、約束を守らない…こういう人は日本の社会では『だらしがない人』としてみられ、信用できない」ととらえている。
また多くの日本人は特定の宗教教義に由来する規範意識を持たないため、外国人から見れば、原理原則とか、普遍的な価値観についてはずいぶんいい加減に見える一方、社会的なルール、特に生活習慣のルールは極めて厳格に守ると呉先生は指摘する。
私が思うに、日本社会の秩序は個人を律する普遍的な制度よりも生活する人々の間での自然の調整作用の働きで「自動的に」保たれている部分が大きい。今回のこの新型コロナ感染症は特効薬のワクチンがまだ開発されない中で、それぞれの国の特性、国民の資質によってさまざまな違いが出ている。
さて、11月末になって全国各地での感染者数が拡大している。「Go To トラベルキャンペーン」を実施してから、人々は「安くなるのだったら旅行したい」と開放的になった。
これは観光地や宿泊業、また旅行会社を間接的に政府が救済するために実施したものであるが、一部地域ではとりやめにもなってきているし、医療業界はもはや「自粛してほしい」というメッセージを発し始めている。
「経済か命か」の選択にまで、政府も自治体も国民もそれぞれの思惑の中での行動や意思決定をしなければならない段階である。
まだコロナは終わったわけではない。これからまた大きな波が来る。会社を守り、命を守ることが当分、強いられると思う。
最後に、呉先生が取り上げた「松下幸之助氏の社会秩序観」を載せておく。