幸せな社長のFlow days 第73回 「地雷処理専門家 高山良二氏に学んだこと(後編)」

先日、岡山の自然栽培というところから手紙が届きました。なんだろう?と思い封をあけると、毎年この時期に桃を送ってくれる友人から家に呼ばれたと書いてありました。桃を届ける頃、自分の身体がどうなっているか計り知れないが「必ず届けてほしい」という依頼を受けたので、準備ができたら発送しますという手紙でした。
友人は、その手紙が届いた4日前に亡くなっていました。63歳でした。
自分が亡くなった後のことまで配慮する。「死に方」にもその方の「生き方」が表れるのだと思いました。

(先月の続きです)

■彼らはなぜ続けるのか?
カンボジアでもっとも貧困な村、タサエン村で地元住民を地雷除去するデマイナーとして育てていたところ7人が地雷除去中に爆死してしまいました。


高山さんは、自分がこの地の復興の目を摘んでしまったと自分を責めました。
「今後デマイナーを続けたいか?」

直接だといいにくいだろうからとアンケートをとりました。すると79人中1人だけ親の介護のために仕方なく辞めるが、他の住民は続けるという回答でした。
高山さんがなぜ続けるのかを尋ねると
「あれを見て」
と言われた方を見ると、デマイナーたちが地雷除去したあとで子供たちが走り回っていました。
未来に向かって住民が自らの意志で一歩踏み出した瞬間でした。

■奥様の突然の病
2010年、奥様が脳腫瘍に倒れます。
医師からはかなり危ない状況と言われ、高山さんは地雷除去処理団体に辞表を提出しました。一時は危篤状態にまで陥った奥様でしたが一命をとりとめました。好きな道を歩くよう奥様のご理解もあり、1年のうち4ケ月だけ日本で暮らすことにして、カンボジアへ再び向かいます。
2011年NPO法人を立ち上げます。

■雇用を生み出す取組み
なぜそこまでやるのか?という問いに
「カンボジアが私を必要としているのではない。私がカンボジアを必要としているんじゃないかな。活動も好きだからしている」
とおっしゃっていました。
高山さんは、彼らには教育が必要だと感じ自宅を開放し日本語教室を開き、その後日本企業にも協力してもらい4つの学校を作りました。

また、雇用を生むために、日本企業4社を誘致し働く場を提供しています。地雷除去した後に作ったキャッサバの芋畑は、安価で売らないために付加価値をつけようと思案しました。焼酎にするために蒸留所を設置、果物はドライフルーツに加工しました。雇用を生み出し、自ら働いてお金を得ることができる村に変えていきました。貧しかった村の人口は5000人だったのが、現在は7000人を超えています。

■いつの日か
毎月必ず訪れる慰霊塔には亡くなった7人の写真が飾ってありますが、さらに一つ写真のスペースがあります。自分が死んだらそこに自分の写真を飾ってもらい、向こうの世界で彼らに会うのだといいます。

高山さんは、どんなに忙しい中でも村の人に会いに行きます。
常に住民と同じ目線に立って考えています。一緒にご飯を食べたり、一緒に悩み、悲しんだり笑い合ったりします。だから、みんなが慕いついていくのだと感じました。

「見て見ぬふりはできない」そんな思いから始めた活動が一つの村を変えた話でした。

皆様のお役に立つ内容が何かあればと思い書かせていただきました。