2021年から2022年の年末年始は二年に渡る新型コロナの感染者数が激減した状況の中で穏やかな時を過ごされた人も多かった。郷里(ふるさと)への帰省で久しぶりに新幹線も飛行機も「ほぼ満員」と報道された。
しかしコロナは束の間の安息を許さなかった。
私自身も年末年始の東京のターミナルや渋谷や新宿の集客施設に群がる人の数を見ていると「これはちょっとやばいなあ!」と思っていた。案の定、正月気分も抜け始めた1月10日頃からまず沖縄で急激にオミクロン株の感染者があっという間に1日で1000人を超えてしまった。
20日すぎには東京でも1日1万人を超えた。同時に日本中で猛スピードで感染者数が増え、23日には1日で5万人を突破した。この2年間での1日の感染者数では過去最高であった。
オミクロン株は家庭や職場にも潜り込んだようだし、その結果、身近に濃厚接触者が増えている。救いは重症者になる人がアルファ株やデルタ株に比べて少ないということだろうか?知り合いでオミクロン株に感染した若い人が「ノドが針に刺されたような痛さだ」と悲痛な声をスマホ越しに出していた。
どこで落ち着くのかも分からない。ただ政府は経済を止めなくないということだろう。既に米国やEUはなんとか経済を止めない政策に切り替えている。
2020年はこの「ワダのメッセージ」の緊急版を32回にわたって配信した。その時のポイントを集約すると
一つ、「資金を調達すること」、あるいは「資金の流出を減らすこと」、つまり資金繰りであり、手元資金を持つということである。
二つ、「お客様の要望、期待に応えること」、飲食店はテイクアウトやデリバリーに挑戦した。個人店はじっと動かず給付金だけをあてにしたところも多い。いずれにしても経営、商売の永続はお客様があってこそである。
三つ、「こんな時だからこそリーダー(社長)の存在が問われる」、つまり、先が見通せない。不安である。こんな時こそリーダーのリスクや不安への対応力、存在力が問われるし、試されるのである。だから弱音をはかない、下を向かない、上を向いて希望とやるべきことを明確に言う。そして率先垂範である。
私は現状はなんとか大波を凌いでいるという状況にあると思っている。会社経営をゆさぶる大波はこれからだと思っている。それにはまだまだ「備え」をし、「具体的に行動する」しかない。
さて、このような時であるが、刻々と時代の変化は進んでいる。特に最近、高齢者(この場合、80歳)で物書き(作家)を生業(なりわい)にされている方々がアンチデジタルグループとして新聞や雑誌に書かれているのが目にとまったので紹介する。
一人は矢野誠一さん、評論家でもあり、作家でもある。「IT弱者といたしましては」というテーマで日経新聞の「文化」に投稿されていた。現在87歳である。この矢野さんの言い分は後期高齢者突入前の小生としては痛いほどわかる。
矢野さんが戦後77年の時間の中で自らの生き場として「文筆業」をされて生きてきた矜持を感じるのである。
この70年間を大きく分けるとアナログ社会(1945~1995年)は約50年、1995~2022年までの今日までがデジタル社会になる。
そのデジタル社会はインターネットとスマートフォンの出現(その前はコンピュータとパソコン)によって社会の様相は一変した。
これからはAI(人工知能)がさらに普及することによって機械もITテクノロジーも経営の仕方も私たちの生活もさらに進化が進んでいくのだろうということは容易に推測できる。
二人目は作家の逢坂剛さん、78歳である。大学を出て、博報堂に31年間勤めて、51歳で作家を専業とされた方である。推理作家として、その地位を築いている。やはり日経新聞夕刊の担当コラムに興味深いことを書かれていた。
矢野さんも逢坂さんもこの類(たぐい)の文章を書かれる方々はかならずと言ってよいほど「年寄りの独り言とか繰り言」というような卑下する枕詞や文章そのものに、そのような気持ちが表現されているのも面白い。しかしそれは時代への抗いでもあるのだろう。
逢坂さんはガラケーは使用しているが、スマホは使わない。私自身もよく感じることであるが、首都圏の通勤電車は7人掛け、その席に座って7人がスマホに没頭する姿はさながら養鶏場の鶏によく似ていると。そしてこれも私も感じていることであるが、満員電車の中でもスマホを開き、目の前にあげて操作するので非使用者は鬱陶しくて仕方がない。まさにその通りである。
逢坂さんは「電車の中では使えないように電波を遮断して使いたい人はホームに出て操作すれば良い」という。良い提言である‼
このお二人の「独り言」は大きな時代の変化を、その代表世代としてとらえていると思う。恐らく、20年後には彼ら世代も団塊世代も世の中から消え、全く新しい時代が出現しているのだろうことも想像できる。
もう一つ、東京の電車に乗って気がつくことがある。それは電車の車内の中吊り広告が減少していることである。すでに広告場所としての価値が消滅しているのだろうと思う。例えば週刊誌の「文春」と「新潮」は横並びで中吊り広告をしていたが、それも取りやめたという。
この中吊り広告の減少も電車の中でスマホ一点集中で「人の顔も見ず、広告も見ず!」という人だらけになった結果の顛末なのだと思わざるを得ない。
こうしてあっという間に社会の動きも変わりつつある。
※矢野誠一さんのコラム。文章は(→PDF)IT弱者といたしましては評論家矢野誠一をご覧ください。